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毎日が卍解★くだらないことに一生懸命。そんな記録


by dragon_mayumi
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マイ鉄キング・Yさん2

注意※今回もディズニーネタではありません。

Dがもっとも尊敬する鉄道オタクさん(笑)にYさんの鉄道コラム第2段。

興味のあるかたは是非読んでみてください。
マイ鉄キング・Yさん1はこちらをクリック

そして次回、コラムにはあの舞浜もやっと登場!




鉄道車両の楽しみ(帝都高速度交通営団の巻)2
 高校一年の時は、秋葉原から日比谷線に乗って通ったのだが、44年3月からは、東西線が西船橋まで開通したので、4月からは、東西線から茅場町で日比谷線に乗り換えて学校に通うことになった。西船橋開通時には、快速という列車種別が地下鉄のくせに設けられ、西船橋を一分前に出た各停を、次の原木中山で追い抜き、東陽町には5分の差を付けて到着するという運行だった。追い越し駅も、新幹線の様に中央の直線を通過する線形で、直線区間での100km/h走行は普通に行われていた。おかげで通学時間が10分から20分の短縮になった。勿論最初の頃の3両編成ではなく7両編成が基本だった。最初の頃の日比谷線に準じた車内設備も、徐々に変更され、リコ式の吊り手が、普通のつり革になり、さらに、6000型で試みられた、つり革の向きが直角方向のおむすび型になり、同時に、非常に大きい直径の扇風機がファンデリアの代わりに取り付けられ、国電が小さな径の扇風機がカナブンの様にものすごい音と勢いで回っているのに比べ、優雅に回転していて、風量はそれほど変わらず、営団地下鉄の方が良いと思った。台車も国鉄のコイルバネのDT21に比べて、エアサスのミンデンドイツ型で、ほぼ新幹線のものと同じだった。そんな訳で、将来は営団地下鉄で、車両設計するのも良いなと思っていた。東西線には、国電301系の車両も相互乗り入れしていて、国鉄初の全アルミ車体、貫通路のある運転台、通勤電車初の空気バネ台車、地下鉄用に自然通風式の抵抗器を装備し、車内の蛍光灯の本数を増し、シートの奥行を深くとり、それなりに新機軸を盛り込んだ車両だったが、営団の車に比べると、モーターの音はうるさく、出力が若干高くても、あまり良い車両とは思わなかった。のちに、モーターの撓み軸が走行中破損し、破片が床を飛び出し乗客の一人が大腿部に重傷を負う事故を起こしてしまった。
 開業当時の東西線は、西船橋を出て、大きく左にカーブを切ってしばらくすると、湿地帯がずうっと続き、新しく碁盤の目状に道路が建設中で、遠くに皇室の御狩り場の木立が見える以外は、何もなかった。その湿地帯に白鷺が数多くいた。行徳も、右手の離れたところに街があり駅の周りは殆ど何もなかった。「青べか物語」の舞台である浦安には、少し集落があり、漁船が何艘か停泊していた位である。倉庫や工場が点在する葛西を過ぎ、当時私鉄最長の荒川鉄橋を渡ると、南砂町の下水処理場の円筒形の水槽が左手に見えて、地下に入り込み、最初の地下駅南砂町を通過して東陽町に停車すると言う具合だった。徐々に利用者が増え7両編成だけでなく、組み替えで、8両9両の編成が出来、識別の為に運行番号のSの地色を、黄色(蜂蜜で8両)、緑色(キュウリで9両)に表示していた。
 高校3年の頃に、次の地下鉄千代田線が開通した。部分開業の時は、5000型の5両編成が主で、まだ、6000型は使っていなかった。同じ5000型でも、帯の色が東西線の青ではなく、常磐線のエメラルドグリーンになり、正面の帯の幅を広くした。そのためヘッドライトと上下位置のバランスが悪く、正面の見た目は悪くなったと感じた。千代田線用の5000型は、東西線のものと車内スピーカーの形状が違い、後に東西線に転属してからも識別点となった。千代田線の新御茶ノ水駅は、靖国通りと、国鉄御茶ノ水駅を結ぶ道路の下に作られ、その御茶ノ水駅側は乗ってから降りるまで約一分かかる長いエスカレータが作られて、推理ドラマの舞台にも使われた。
 高校時代の銀座線は、前に述べた両開きの2000型を先頭にして、中間に開業以来の100型、1000型、1200丸ノ内線車両の先行試作となった1400型などを挟んだ6両編成が主だったが、開業以来の100型、1000型を廃車にする事になった。6000型の試作車で試みた車内広告を内側から照らす方式を採用した、運転台無しの二両一組の1500型が大量に増備された。そのため窓の天地が狭く、初期の6000型、後に登場する有楽町線用の7000型と共通するデザインであった。  
 また、将来の簡易冷房化を考慮して、丸ノ内線や、銀座線の特徴である、ファンデリアと屋根両側にルーバー(外気取り入れ口)がずらっと並ぶ形態とは違って、屋根の四隅にだけ外気取り入れ口のある構造だったので、夏場の車内は、他の車両より暑かった。
 両側の先頭は2000型に、それまでの旧型車の電装を解除して一両だけ組み入れて、2000型3両と1500型2両に、旧型車両1両の構成から始まり、01系増備に伴い2000型2両と1500型4両の構成に徐々に統一されつつあった。
 丸ノ内線に乗ると、内装がデコラ貼りで、ドアの窓支持が6000型の様にHゴムでなくて細いアルミで、窓枠も銀色のアルミ無塗装で、車内の吊り手がおむすび型の運転台のないきれいな車両がたまに入っていた。これは900型であった。
 同じくその頃の日比谷線は、開業当初2両連結だったのが、4両が普通となり、高校通学時は、全車6両編成になっていた。日比谷線は、東武、営団、東急が相互乗り入れしていたけど、東急の車両はたまにしか来ないで、東武の車は、三本か四本に一本ぐらい来て、さらに営団の車両も、東武の竹ノ塚、後には越谷まで乗り入れる車両が多かった。俗に東武日比谷線とも言われたものだった。そんな訳で、元々17m級6両までを見越して駅の設備が作られていたのだが、輸送量の増大に追いつく為に駅施設を8両編成に対応する様に改良する事になった。車両の方は、営団、東武は中間車2両をそれぞれ増備して、東急は地上線(東横線)に20m級の車両(8000型等)を増備して、17m級の7000型を日比谷線に回すことで対応した。東武は、既に地上線の方は、20m級が標準となっていて、そのために、東急の様な対応は出来なかった。編成増のために増備した車両は、外観は同じで区別が付かないが、よく見ると違う点があった。東武の場合、蛍光灯のカバーが最初から無く、台車も、揺れ枕吊りが付いたものであった。これは、技術的に逆行している事になるので不思議に思ったが、東武の特急用の車両1700・1710型12両を、1720型の車体に作り替えた際に、台車は枕バネがコイルバネの元のままのもので乗り心地が悪く、後から新しい台車を製造し交換し、余った台車の枕バネを空気バネに変え、日比谷線の増備車に回したものだと分かった。営団の車両も、ベンチレータ(屋根上の通風器)が、東西線の最新型のものと同じものが使われているとか、内装の黄色が濃いとか、吊り手の形が違うなどの違いがあった。
 大学に入って間もなくした頃、千代田線の常磐線側も開通し、6000型が大量に10両編成で運転を始めた。勿論5000型も、5両編成を二組連結して、運転していた。
 その次に開通したのは有楽町線で、6000型とほぼ同じ正面形状で、正面貫通路の上に小さな窓を付け、帯を黄色にした7000型が登場した。こちらも最初は5両編成だった。この小さな窓は、列車種別表示のために付けられたのだが、実際に使用されることはなかった。
 その次の地下鉄は半蔵門線で、渋谷を境に東急新玉川線を通して、田園都市線に直通する線であった。この時用意された車両は8000型で、6000型、7000型を、少し直線的にし、ヘッドライトを、当時の乗用車の流行に乗って、丸から四角にしたものだった。一方、相互乗り入れする東急の車両は、東急8000型をマイナーチェンジしただけの8500型で、随分営団の車両の方が高級に思われた。この営団の8000型が、一時期東西線に使われたことがあった。コントローラを東西線の車両に合わせて改造し、帯の色はそのままに、ドアの上にブルーに白文字で東西線と書いたステッカーを貼って走ったことが、一時期だけあったが、これはもっと後のことである。
 高校時代の東西線の話は前述した通りだが、その約7年後、三鷹に勤める様になってから、一時期鷺宮に居候して、その後高円寺のボロアパートに居た関係で、再び私と東西線との関係が密になった。その頃は既に、千代田線から来た5000型も一緒に走っていた。以前の7両、8両、9両編成と違って、もともとの7両編成か、それに中間車を増備したものあるいは千代田線から来た10両編成の二種類の長さになっていた。元々の東西線の車両も明視性の為から前面の帯の幅は拡大され、千代田線車両との前面での区別は付かなくなった。一方では、国鉄の301系は7両編成のままだった。千代田線から来た5000型は、前述の通り、7両編成の中間増備車は、戸袋の窓を省略したタイプが作られた。その中で当時国鉄が塩ビシートをやめて塗り屋根に改めている時に、わざわざ、営団地下鉄では初めて塩ビシートを屋根に貼って、戸袋窓が無い形態で、導入されていた車両があり、一寸驚いたことがあった。これが、5000型の最終増備車(昭和54年度)になった。中には、先頭車でも戸袋がないものもあり、これは、突風で、荒川鉄橋で脱線転覆した車両の部品を使って作り直した車両だった。また、さすがに経年に伴う更新工事によって、後から戸袋窓を無くした車両もあったようである。まだ、冷房化工事は行われていない頃の話である。
 その頃の丸ノ内線は、徹底した更新工事が行われ、内装板は全部張り替え、きれいなサーモンピンクのデコラ板になり、鮮やかな赤い車体に、無塗装のアルミサッシュが映え、何時の時代でも丸ノ内線の車両は、きれいだと思った。
 55年頃、銀座線の中間車1500型が、8両だけさらに増備された。これは、何故か常に銀座線の車両を丸ノ内線の塗色にして(ステンレスのサインカーヴは無し)使っていた方南町支線の2000型を2両編成5本から3両編成6本に置き換える為、中間に組み入れられていた2000型を8両捻出して、それに充当するために増備したもので、従前の1500型と違って、2000型あるいは丸ノ内線の車両の様に窓の天地が大きいものだった。これは、既に車内広告を内側から照らす方式を廃止して、普通の広告に変えられていた事に伴う変更だった。
 6000型、7000型の増備車も窓の天地が大きい一段下降窓になり、非常にスマートな感じになった。
 東西線用に、意欲的な通勤車両301系を投入した国鉄が、もっと距離の長い常磐線乗り入れ用に増備した車両は、なんと、駅間距離が短い山手線用に開発したにもかかわらず、駅間が長くてその上高速で走る区間にもかまわず導入していた通勤型103系の抵抗器を自然通風式にして、正面に貫通ドアを設けただけの、地下鉄用の改造で、しかも地下鉄区間で要求される勾配での引き出し性能を満たすために、10両編成に電動車を8両も組み込んだ1000番台だった。地下鉄線区にコイルバネとは時代錯誤的な気もしたものである。未来的な外観と性能を誇る営団6000型との対比は、鉄道に興味のない人にも、面白いものだったと思いう。少し後になるが、同じく千代田線に投入するべく小田急が用意した車両は、鋼製車体ながらこれまでの小田急の車両形態を大きく変えたしゃれた正面形状を持つ、9000型であった(これも、10両中8両が電動車だったが・・・)。




Y青年の鉄道車両の楽しみは続く!


一本筋の通ったオタクの人生はかっこいい!たまにはこんなコラムもいいねって方はぽちっと(笑)
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by dragon_mayumi | 2010-11-19 13:01 | 鉄道ネタ